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SATTYのDREAM LIFE!

人生はたくさんの夢と物語でできているのだ。空想と妄想がつまった私の日記。

又吉直樹著【東京百景】をよんで。0か100か、白か黒か、それとも。

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Ángelo González | Flickr - Photo Sharing!

昔から私は何かを成そうという時に、0か100かを求める節があったように思う。

0の時はこれから何者にでもなれるという未来の自分への期待に胸が高揚する。100の時のことは、おそらくこれまでの人生でまだ知らない。知らないのだけど、100なんじゃないかと錯覚するような瞬間は、また恍惚としていて心地がよい。世間的にはこれを自分に酔っているという。

裏を返せば、たとえば20とか30とかの状態を避けて生きてきた。形になる気配もまだ漂わず、これはこのまま続けても何者にもなれないんではないか、と不安だけがつきまとうような、苦悩の20から30。

世の中で成功者と呼ばれる人たちは、みな気がつけば100を越えている人だと信じていた。0から始まり、20も30も知らずに「あれ、今100じゃね?」と気づく。それが才能であり才覚だと。私はそんな選ばれしスーパースターになりたかった。もっとわかりやすくいうと、苦労も努力も嫌いな甘えん坊だった。

苦悩の20にさしかかる頃に、頭の中で声が聞こえる。

「20に自分に気づいちゃってる時点で、ハイ、オツカレってとこかな。」

さすればどうするか。0に戻ればよい。「潔さ」「割り切り」という便利な言葉を身につけ、また違う何かを探しに行く。なぜなら0の状態に戻れば、また自分に期待をすることができるからだ。それは都合がよく、何より楽だ。

しかしいよいよ30年以上も生きていると、新しい何かを探すのにも苦労する。映画でもとりますか、女優にでもなりますか、お面職人にでもなりますか、心理学者にでもなりますか。そして人生が終わるまで、それを何度も繰り返しますか。

周りを見渡して、遅ればせながらに気がつくと、5や10を悶絶し、20も30も吹き飛ばし、40も50も嬉嬉として、60、70、80、90と地獄を楽しみ続けたものこそが、スーパースターだった。

白でもない黒でもないグレーで鬱々とした苦悶に喜びを見いだせたものこそが、それを語る術を知るのだ。
 
と、こんな気難しい文章を書いているのには理由があって、又吉直樹さんの「東京百景」を読んだ。
 
東京百景 (ヨシモトブックス)

東京百景 (ヨシモトブックス)

 

 

 やりたいこととやるべきことの狭間で葛藤することを正当な苦悩だと信じて甘えていた。
一部の人にしか伝わらない深さを持つ交渉な作品は確かにある。わかりやすく大勢の人を引きつける作品も確かにある。しかし、作る側がそんな市場を意識するのは作品の弱点を補うための言い訳に過ぎないのかもしれない。悩むのも、割り切るのも自己弁護に過ぎないのかもしれない。
 
又吉直樹著「東京百景」より

 

彼は私からみれば、才能の塊のような人だけど、彼は決して突如100にたどり着いたスーパースターではなかった。自伝のように語られる100のエッセイから匂い立つ、フツフツと煮詰まった自意識や混沌とした苦悩。

寄り添えない不可思議な感覚もあれば、同化しそうなほどの共鳴も感じる。白でも黒でもないグレーな感じが、心地よく胸に迫る良書だった。
ああ、思い知る。生きていることなんて、答えのでないグレーばかりだ。苦労知らずの甘ちゃんが目指す20の壁は遙かに遠い。
 
それでは今日はこの辺で。
また、次のお話で。